【衝撃】吉田響が東海大を退部した理由まとめ!転校先に創価大を選んだわけは?

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2025年箱根駅伝で2区を疾走した吉田響選手。

驚異の13人抜きを達成し駅伝ファンを沸かせましたね。

そんな吉田響選手ですが、実は元々東海大学の駅伝部から創価大に転校したことが知られています。

なぜ東海大学の駅伝部を退部したのでしょうか。気になりますね。

今回は吉田響選手が東海大学を陸上部を退部した理由や、創価大を選んだ理由を紹介します。

ぜひご覧ください。

もくじ

吉田響が東海大を退部した理由2選!

吉田響選手は2023年4月1日にXにて、東海大学を退学し創価大学へ編入されたことを報告しています

吉田響選手が東海大学を退学した理由を見て見ましょう。

理由①:チームとの考えの不一致

吉田響選手は、「チームとの考えの不一致」を退部・退学の一因として挙げています。

吉田響選手は東海大の主力選手でした。

山の神になる」という目標を掲げて頑張っていましたが、チーム内の意識にギャップがあったようです。

以下に東海大陸上部の両角監督のインタビューを紹介します。

今年は気持ちをひとつにしてワンチームで戦おうというのを掲げていました

4年生はすごく生真面目な子が多くて、自分たちの理想とするワンチームはこういうものだというのを強く打ち出したんです。

たとえば私生活から厳しく管理していこうとしたのですが、2、3年生とかの賛同を得られず、反発されていました。

そういう経緯もあって、なかなかワンチームになれないまま終わってしまった

引用元:Sportivia 2023.1.16

陸上部内で、上級生と下級生の間でイザコザがあったことがわかります。

吉田響選手は退部・退学までされているため、相当深刻な問題があったのではないでしょうか。

また、監督の「私生活を厳しくする」というルールにより、吉田響選手以外にも約20人ほど大量に退部したそうです。

東海大陸上部の闇が深そうですね。

理由②:健康面と精神面の不調

吉田響選手は、「健康面と精神面の不調」も退部・退学の一因として挙げています。

吉田響選手は監督やチームメイトと話し合いを重ねていく中で、段々と日常生活を送る上で精神的に不安定になっていったそうです。

そして競技に対する意欲が低下していきました。

吉田響選手は健康面や精神面が安定しなくなり、退部や退学を余儀なくされる状況に陥りました。

この大きな決断は、当時まだ大学2年生だった吉田響選手には大変辛かったでしょう。

「山の神になる」という目標を達成できぬまま、中途半端になってしまったことに悲観したこともあったのではないでしょうか。

吉田響は創価大へ編入したのはなぜ?

東海大学を退学された吉田響選手は、3年生から創価大学に編入され陸上部に入部されました。

なぜ創価大学に決めたのでしょうか?

その背景には、

創価大学の榎木和貴監督からの誘いがあった

ことをXにて明かされていました。

榎木監督は東海大学での吉田響選手の活躍を見ていたのでしょう。

吉田響選手は次の活躍の場を見つけることができ、「山の神になる」という夢に挑戦し続けられることになりました。

創価大編入後の実績

2024年1月、創価大編入後初めての箱根駅伝を迎えた吉田響選手は、念願だった5区を任されます。

しかし、雨の影響で十分な力を発揮できなかったのではないかという見立てがありました。

結果は「1年 5区 区間2位 10位でゴール」となり、雨という悪天候の中でしっかり実力を出し切っていますね。

また、吉田響選手は、2024年10月14日に行われた第36回出雲全日本大学選抜駅伝競走において、2区で区間賞を獲得しました。

2区の距離5.8キロを15分46秒で走破し、素晴らしいパフォーマンスを示すことができました。

しかし、同チームのリーキー・カミナ選手がドーピング規則違反を犯していたことが発覚し、カミナ選手の出場が無効・創価大学は失格となりました。

当然吉田響選手が獲得した区間賞も幻となってしまいました

また、2025年箱根駅伝では念願だった5区ではなく直前で2区へ変更となりました。

これは、自分のやりたいことよりも、チーム全体の利益を優先したからだということがわかりました。

創価大学に編入されたことで、大変な苦労もあったと思いますが、精神面も強くなられたのではないでしょうか。

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この記事を書いた人

エルフィです。
アラサーの小学生ママです。
好きなもの
エンタメ・K-pop・アウトドア・ファッションなど。
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